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中村とうようの死について

先頃、自殺した音楽評論家の中村とうよう。
彼の死について関係者から漏れ伝えられてきたことがある。

彼は老人性鬱症状でそれが自殺の原因とされている。
彼は多くの関係者に遺書を送っており「覚悟の自殺」ということになるが、その直接的な引き金となった事件があるそうなのだ。
彼は自殺する前に膨大なレコードコレクションを某美大に寄贈した。
それらは美大のギャラリーに展示されることになったのだが、単に絵やデザインとしてのジャケットを飾っただけであって中身の音楽とは無関係に展示された。

そのことに彼はひどく憤慨し落胆し絶望したという。
それが自殺の直接的引き金になったというのだ。

1970年代当時、我々は「ジャケ買い」と言って気に入ったジャケット、気になるジャケット、デザイン性に優れたジャケットなどなど、中身の音楽を知らずにレコードを買うことがあった。
それだけ魅力的なジャケットが数多く存在したのだが、そうした買い方をしても中身の音楽に失望することがなかった。(むろん、すべてではないが)
つまり、優れたジャケットには優れた音楽が付きものだったのだ。

言い方を変えれば、音楽とジャケットは互いを補完するようなものであり互いを引き立てるものであった。
したがって、ジャケットだけでは成立せず、常に中身の音楽とセットで存在したわけだ。

ジャケットだけを飾って、そのデザインを誇示するようなやり方はいかにも「美大的発想」だが、そのことに彼が失望するのは言うまでもないことだろう。
彼が何を望んでコレクションをその美大へ寄贈したのかは分からないが、自身の思いとは別の形でそれらが扱われることは許せなかっただろう。

美術やデザイン、芝居や映像、いわゆる芸術と呼ばれるものはすべて「音」と無関係ではない。
それが音楽の場合もあるし効果音の場合もある。
時には音そのものは聞こえなくても「音を感じる」「音の気配を見つける」といった形で密接に音と結びついている。
ましてや、レコードジャケットは先に述べたように音との相互関係によって成立するデザインであり美術である。
決して、音と切り離してはいけない存在のものなのだ。

美大のような権威主義的短絡的な発想の場においては、それらが単純に紙媒体としての芸術としてしか扱われなかったとしても「さもあらん」なのだが、そのことが彼の命を縮める大きな原因となったのであれば、その権威主義的短絡的な発想は罪を犯したと言える。

彼のお別れ会は少人数の出席者により彼の死を悼みつつ彼の悪口を言い合うという、いかにも彼らしいものであったそうである。

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(ともに中村とうようが編集責任者だった音楽雑誌)
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by ma.blues | 2011-10-08 18:01 | ぶつぶつ | Comments(0)  

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