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「ジョン・ケージ生誕100年」企画の報告

11月3日(土)に行なわれた「ジョン・ケージ生誕100年」企画[Return of John Cage]のレポートを参加者・演奏者の一人であるONNYK氏に書いていただいた。
長文ですが中身の濃い内容です。ぜひ、お読み下さい。
なお、当日はONNYK(eg)、アトム(sax)、ニコレッタ(viola)による演奏も行なわれました。

アメリカの作曲家、ジョンケージは1912年9月5日に生まれ、 1992年8月12日に亡くなった。生誕百年かつ初来日の1962年から半世紀経った今年、貴重な秘蔵音源がCD化された。初来日時のコンサートライヴ録音が、3枚のCDほか写真集などにまとめられ、リリースされた。この快挙を成し遂げた日本のショップ/レーベル「オメガポイント」の代表、酒井助六が盛岡でケージとその周辺について紹介するという企画がもたれた。


「ジョン・ケージ生誕100年 & 初来日50周年記念〜60年代実験音楽を中心に」と題しているので、ケージだけでなく色々な音楽を紹介すると酒井氏は語り始めた。

まずは終戦直後の欧米の前衛音楽の動向と日本の状況を。

ヒトラーが大好きであったワーグナーに代表される情動的な音楽を否定し、論理的な作曲方法こそが尊重された。メシアンは音楽のすべての要素を論理的に制御した器楽作品を発表した。シュトックハウゼン、ブーレーズもこぞって行ったがこうしたセリー手法は行き詰まりを見せ数年で衰退して行った。ドイツでは楽器ではなく、すべて純粋電子音で要素を作ろうとしたアイメルト、ケーニヒなどがいた。一方フランスのシェフェール、アンリは身近な音を録音し、テープによって加工するミュージック・コンクレートを提唱し、実践した。

日本でもNHK電子音楽スタジオができ、武満徹、湯浅譲二らはすでに50年代初頭から、電子音楽や多様なスタイルの実験的作品を手がけていた。

ヨーロッパが前衛音楽を主導していたころ、アメリカでは前衛的な音楽をやる作家は極めて少なかった。根底にヨーロッパへのコンプレックスがあったが、何人かの作家はさまざまな試みを行ってきた。特殊な音階の音楽とそれを演奏するための自作楽器を多数製作したハリー・パーチ、ピアノの弦を直接いじって音を出す作品を世界で初めて作曲したヘンリー・カウエル、サイレンなど騒音を取り入れたエドガー・ヴァレーズ(ザッパの終生のアイドルだった)など。

そしてケージは、歴史の拘束のないアメリカでこそ、自由で実験的な芸術が可能であるとし、様々なアイディアを生み出した。ピアノの弦の間にボルトや木片などを挟み、パーカッションのような響きにしてしまうプリペアド・ピアノ。演奏者はいるが、全く音を出さない曲「4分33秒」。演奏会場で直接電子的操作を行うライブ・エレクトロニクスの実践。作曲を恣意的操作から開放し、コイン投げなど偶然に任せる不確定性音楽の提唱などである。

彼の作曲法は、音楽界よりも前衛芸術全般に多大な影響を与えた。ケージの言う「実験」とは「結果が予想できない行為」であり、60年代のハプニングやパフォーマンスという表現に発展していった。

とくにデザイナーだったジョージ・マチューナスが1961年に提唱した「フルクサス」という美術・音楽・詩・映画などの実験的作家による、緩やかに連帯した組織は、その後の芸術への影響が大きかった。日常生活を芸術的意識で行う、あるいは芸術行為を生活の一部として行うというのが彼らの主張だった。日本からは一柳慧とオノ・ヨーコ、小杉武久、刀根康尚、ヨシ・ワダなどが参加した。

自身も1950年代始めからアンフォルメルなどの前衛美術家と交流した理解者であった草月流家元・勅使河原蒼風は、58年に前衛芸術の拠点となる草月アートセンターを創設した。ここでモダン・ジャズ研究、実験音楽、実験映画の紹介、暗黒舞踏などの画期的な試みが多数行われた。

62年、ケージはピアニストのデヴィッド・チュードアとともに来日。草月アートセンターを皮切りに、日本各地で7回の公演が行われた。64年には、マース・カニングハム舞踊団が招かれ、音楽をケージとチュードアが行った。

ケージが行った演奏は音楽自体の概念を根底から覆した。「前衛」を自認してきた作家たちは、ケージを拒絶し前衛をあきらめた人と、受容し刺激を受けた人に二分された。これが日本におけるジョン・ケージ・ショックである。

ヨーロッパではすでにシュトックハウゼンの電子音楽がロックに影響を及ぼし ていた。後のクラウト・ロックの発展もこの流れである。アメリカではフラワー・ムーブメントが起こり、ラ・モンテ・ヤング、テリー・ライリー などのミニマル・ミュージックが、サイケデリック・ シーンに大きく影響した。後にベルベット・アンダーグラウンドに移ったジョ ン・ケールも、ラモンテと一緒に活動していた。

日本では、高度経済成長に歩調を合わせるように音楽の領域が拡大していった。特に一柳慧は、芸術家たちとの交流が広く、落語、演歌、ロックをコラージュし た「東京1969」は現在も有名である。また小杉武久は帰国後、タージ・マハル旅行団を結成。当時の実験的即興演奏の発展の中でも独特な存在であった。

1970年の大阪万博は60年代前衛芸術の総決算であったが、経済の下降、社会問題の顕在化などとともに日本の進歩主義的ユートピア思考は色あせていった。現代音楽で行われた実験は、「前衛=新奇なネタ」という勘違いも手伝って衰退した。

ケージの音楽も同じで、70年代中期以降の作品は、思想こそ変わらないものの社会を突き刺す鋭さは失せ、耳になじむものになってしまった。しかし60年代初頭のグラフィック作品、特に本人が行った極めて過激な演奏というのは、実は録音がきわめて少なく、ケージがもたらした「本当の衝撃」をあらためて聴いてみれば、それは今でも色褪せていない。

というのが酒井氏の約90分にわたる解説と作品紹介だった。

ケージが20世紀以降の音楽に与えた影響は計り知れない。いや音楽だけでなく、美術、パフォーマンス、インスタレーション、思想、美学も彼の出現以降、変容してしまった。その存在は友人であったマルセル・デュシャンにも匹敵する。とくに演奏家が何もしない「4分33秒」という「曲」は、西洋音楽の歴史に一つの極を刻み付け、いまだに論議が絶えない。そうは言っても本当に彼の音楽、作曲がどのようなものであったか、自分の耳と意志で確かめている人は多く無いようだ。
 (ONNYK記)

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by ma.blues | 2012-11-08 18:52 | ライブ報告  

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